前編 みろくの世の礎石となって

5,「神霊界」の創刊

 大正3年5月、聖師の著作「善言美詞略解」が発行されたが、この頃から近隣用地の買収や神苑の拡充が急速に進展していった。この年の節分の翌日には金竜海と統務閣の斧始式が行われ、いずれも9月に竣工。また8月には金竜海の地鎮祭が執行された。
 聖師は内にあっては神苑の整備、外に向かっては積極的な宣教にと多忙な毎日であった。しかし、こうしたなかにあっても、瞬時として出版活動に手をゆるめることはなかった。
 「敷島新報」の創刊とともに、大本の教学の研鑽を目的とする根本学社を設置、大正5年4月には機関誌「このみち」が誕生した。(のち「敷島新報」と合併)
 さて、この「敷島新報・このみち」は大正6年1月「神霊界」(B5判)と改題された。主筆兼編集長には大正5年より綾部に移住した英米文学者の浅野和三郎が就任した。「神霊界」は毎号20〜30%の割合で「神諭」を掲載して立替え立直しを世に訴え、日本と世界情勢に対する鋭い警告は、世に大きな反響を巻き起こした。
 東京の有朋堂・新橋館、大阪の大鎧閣を大売捌所とするなど販路の拡大や宣伝にも力をいれたため、大本に対する感心は全国的なひろがりをみせ、綾部を訪れる参拝者は急増した。
 大正6年12月には「綾部新聞」、大正7年4月には青竜隊誌「青竜号」が創刊され、出版、印刷部門は一段と繁忙をきわめるようになった。組織的にもこれに対応するため出版部が設置されたが、印刷もこれまでのような体制では追いつかず、神苑内に印刷工場を設置することになった。新工場は大正7年8月1日、本部事務所階下に完成した。当時、台湾の明治製糖株式会社専務で熱心な信徒であった高木鉄男はこの新工場完成を祝って活版印刷機1台を献納した(7月11日)。そのころ出口宇知麿(当時佐賀伊佐男)が愛媛県から本部奉仕にあがり、印刷部に入った。(大正7年10月10日)
 宇知麿は当時の状況について次のように述べている。
 「この頃の印刷設備は粗末なもので、印刷機は足踏みの機械が1台あっただけでした。出版されていた書籍は『神霊界』これが月2回、『綾部新聞』が月1回でしたが、なかなか多忙でした。その頃、印刷部に奉仕していたのはごく小数で、地方からは奈良や丹波、京都くらいで、あとは綾部の役員の息子さんたちが奉仕されており、10人たらずではなかったかと思います。だんだん大本の内部の仕事が活発になり、徹夜を続けることもたびたびあり、みんな心を合わせて励んだものです」(「松のひびき」)
 「大正9年の節分に五六七殿の竣工式が行われました。五百六十七畳敷の大広間です。この月から『神霊界』が月2回発行されるようになりました。
 一方、聖師様は9年の1月1日より役員や信徒の氏名読み込みの歌を次々と発表され、これが毎号続きました。私は『天の下四方の国に佐賀すとも神の伊佐男にまさるものなし』というお歌をいただきました。
 その頃印刷部の仕事は益々忙しくなり、工場もだんだん充実してきましたが、私は校正のさしかえの仕事にかわることになりました。その頃聖師様がたびたび工場においでになり、工場の中を見まわりになってお帰りになりましたが、あとで『その時分から眼をつけて見に行ったのだ』と申されていました。とにかくお忙しい中でも、印刷工場にも造営の仕事にもよくおいでになり指図をされていました。大正9年の3月頃、印刷部は製本なども含めて27人になっていましたが、ますます多忙をきわめておりました」(同)

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