前編 みろくの世の礎石となって

6,相次ぐ新刊

 「神霊界」誌の大本神諭とともに聖師の大正維新論が社会の注目を集め、教線は全国的な拡がりをみせ、信徒は急速に増大した。
 神苑は日毎に活気をみなぎらせていった。そうしたなかで、開祖は大正7年11月7日、聖師や二代教主、熱心な信徒に見守られつつ静かに81歳の生涯を閉じられた。明治25年に国祖国常立尊の神霊が帰神されて26年間、ひたすら「大難を小難に」「小難を無難に」と人類の幸福を祈りつづけられた開祖はあとを聖師、二代教主にまかされてご昇天になったのであった。
 大正5年、大本は皇道大本と改称し、独自の皇道観を唱え、政治、教育、実業等の立替え立直しを主張し活発な宣教を展開していったが、その媒体となったのはこれらの機関誌であった。知識人や軍人の入信も相次いだ。
 また山陰地方をはじめ各地からの入信者が激増、大正8年の正月には五百余名の修業者を数えるほどであった。
 出口日出麿尊師(当時高見元男)がたびたび綾部を訪れるようになったのはこの頃であった。京都帝国大学の学生であった尊師は、昼は神苑整備のための献労、夜はお筆先の浄写に励まれた。丁度、大本が旧亀山城址を入手して亀岡に進出し、大道場を開設した頃であり、尊師は亀岡でもモッコを担ぎながら神苑造成の作業にあたられた。卓越した能力は直ちに着目されるところとなり、「大本時報」(大正8年9月、「綾部新聞」を改称)などでその健筆を振るわれるようになった。
 出版局長には大正7年9月に入信した岩田久太郎(三井物産(株)台湾支店長)副長には谷村正友が就任(大正8年9月任命)して、印刷、出版体制は着々と拡充されていった。大正9年3月には岩田に変わり江上新五郎が出版局長に、近藤貞治が副長に就任した。
 天声社の前身ともいえる出版局を母体として続々と新刊が発表された。
 「大正維新の真相」「皇道大本略説」(大正7年8月)「大本神諭略解」(同11月)や「大本神諭第一輯」(同12月)「裏の神諭」(大正8年7月)など王仁文庫、大本叢書、亀岡叢書から毎月のように新刊が発表され、大正7年から9年末までのその数は30冊にも及び、工場はまさに目のまわるような忙しさであった。
 一方、はなばなしい布教と宣伝を展開する大本に対して、当局は警戒と危惧をもって干渉を強めていった。大正8年2月と3月には京都府警本部が2回にわたって直接大本本部を調査し、5月には第1回目の警告を、ついで8月には大本神諭「火の巻」が発売禁止の処分を受けた。中村古峡著「大本教の解剖」など大本を厳しく批判する書籍も次々と刊行された。
 しかし、聖師はこうした批判や当局の干渉のなかにあっても、布教活動をゆるめることなく、8月には大阪に本拠を置く日刊紙「大正日日新聞」を入手、9月25日には復刊第一号を発行した。それは大本の主張をより広く社会に訴えるためであった。
 当時、大日本修斎会には祭務局、教務局、庶務局、地方局、財務局、出版局の6局があり、出版局は機関誌や新聞、書籍の編集、印刷、発行、販売を主な事業としていた。
 「綾部新聞」から「大本時報」への改題(大正8年10月)を機に、編集方針も改められ、「大本時報」は対外的主張を、「神霊界」は信徒の強化、育成に重点がおかれるようになった。大本のこれらの書籍は東京や大阪の有名書店でも販売され、その発行部数は数万から十万部にも及んだと伝えられる。

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