前編 みろくの世の礎石となって

7,嵐の中を(径綸のままに)

 皇道大本は大正9年夏「大正日日新聞」の経営にあたることとなったため、「大本時報」は第154号で休刊(9月)になった。出版局では栗原七蔵ほか次の各氏が大阪詰を命ぜられた。
 河津雄治郎 江上新五郎 瓜生潤吉 曽根三夫 筧守蔵 井上亮 東条内外 森宏二 大深浩三 中村本松 井上光次 渡嘉敷巌 湯浅研三 根本柳一 井上徹 油谷理一 堂前研三 中島種雄 七島仁 辻安英 開徳蔵 山岡恭平 村上発十 小高英雄 松田盛政
 大正日日新聞社は聖師を社主に、浅野和三郎を社長としてスタートを切ったが、旧社員の相次ぐ退社や官庁や警察、新聞業界からのさまざまな圧迫のなか発行部数は3ヵ月で当初の半分以下の20万部に落ち込んだ。大正10年に入ると、聖師は自ら社長に就任、陣頭指揮にあたるため大阪の本社に起居したが、2月12日突然刑事に連行され、京都監獄未決監に拘留された。
 この日、綾部でも二百余名の警官隊が本部や幹部宅を急襲し、要所を封鎖した。
 大本不敬事件と呼ばれる第一次弾圧であった。
 その年の5月、事件に関する記事差し止めの解禁となって、一挙に全国紙が大本批判を始めた。激しい中傷やでっち上げ記事によって大本の邪教観は津々浦々に広がっていった。
 聖師は6月、浅野と共に責付出獄したが、当局の大本に対する弾圧はゆるむことなく、開祖の奥都城は強制的に改築された。「邪教大本」の報道はくりかえし国民各層にまきちらされ、それはまさに典型的な国家権力による宗教弾圧であった。
 教団は開教以来最大の試練に直面したが、信徒は意外に平静に受け止めていた。
 神諭の「悪く言われて良くなる径綸」という教えはほとんどの信徒にゆきわたっていた。「神霊界」は6月1日、第138号で廃刊となったが、8月1日にはかわって「神の国」が発刊された。「王仁文庫」からも次々と新刊が続いた。例えば「記紀真解」(発刊2月5日)「道の大原」(同3月1日)「多満の礎」(同4月1日)「記紀真釈」(同4月5日)「八面鋒」(同6月25日)「道の大本」(同8月30日)「五色草」(同10月10日)などである。
 出版局印刷部も2月12日、捜査を受けたため、近藤局長は機械場、製本場、文選・植字場、販売所などを案内した。捜査班はその際、工場から「神霊界」の原稿や校正刷りを押収した。
 しかし、こうしたことがあっても、教団活動はさして事件前と大差がなく、出版局印刷部では社屋や設備の増強を次々と実施していった。その際、印刷部には八頁刷りの印刷機4台、十六頁刷り印刷機2台と紙型や活字の鋳造設備が増強された。
 第一次大本事件は9月16日、公判が開廷され、翌月の10月5日には聖師に対し不敬罪では最高刑にあたる懲役5年の判決を言い渡された。教団は直ちに控訴したが、一方では内部の改革も精力的に進め、皇道大本は「大本」と改称された。
 さらに大日本修斎会は綾部から亀岡に移転して大道場と合併、出版局は事業体として独立するこことなった。
 大正10年10月20日、当局による本宮山神殿の取り毀しがはじまったが、その2日前の18日、聖師は和知川河畔の松雲閣で大本神諭とならぶ教典として「霊界物語」の口述を始められた。聖師は神殿が破壊される音を聞きつつ口述を進められ、12月30日には早くも第1巻の発行をみた。聖師は鳥取県の岩井温泉や伊豆湯ヶ島温泉等で精力的に口述を進められたが、一巻分は約3日という驚異的なスピードであった。翌年の12月には46巻を2日間で脱稿、平均するとほぼ1ヵ月に1巻発行して、満7年4ヵ月で72巻を刊行した。この出版にあたって地元の信徒、その子弟を中心とする三十数名の奉仕者が固い結束力と強い使命感に立って全力を傾注し、印刷に取り組んだ。この結果「神の国」はたびたび発行中止や縮小を余儀なくされることがあった。
 大正11年2月、大日本修斎会は大本瑞祥会(会長湯川貫一)と改称されたが、その2ヵ月後の4月17日、かねて進めていた印刷工場の新館完成を機に、従来の出版局から出版局天声社と改められるこことなった。大本の歴史に天声社という名前がこの時初めて登場したのである。
 出版局天声社は5月12日、瑞祥会から分離、独立して天声社となり、初代社長に吉田大二が就任した。聖師は霊界物語の出版のため、一時的に縮小や休刊を余儀なくされていた「神の国」の梅花(倍加)運動に取り組み、紙面の充実と刷新を図って、10月には復活号を発刊した。この「復活号」はB5判92頁で、定価は25銭であった。また印刷体制をより拡充するため、10月21日、工場用地(現松香館の場所)で新築地鎮祭が執行され、翌年の大正12年1月27日、基礎工事が完了した。
 当時の模様を「神の国」では次のように伝えている。
 「天声社新築の基礎工事及び神苑の樹木移植等にて皆々多忙にして、活気横溢せり。天声社の建築も年内に工を起さん勢いにて、毎日7時半より五六七殿の大工小屋にて二十余名の大工さん達大活躍中」。
 また工事の様子をさらに次のように紹介している。
 「今日も天声社石搗にて在住信徒の老幼男女『めでためでたの若松さまよ、枝も栄えりゃ葉も茂る、おめでたや』の歌と共に心一つに綱引く様見るも心地好き限りである。二代教主始め莞爾として之を眺めておられしが、やがて自ら手をかけて一同と共に暫く綱を引く」。
 この新築工事は大正12年2月17日上棟式が行われ、6月15日完成をみるにいたった。また十日後の6月25日には天声社の社長が吉田大二から御田村竜吉に変わり、副社長には近藤貞二が就任した。
 この日、天声社では午後1時から社員を集め、新陣容のお披露目と内祝いを開催した。
 聖師は社員を前に今後の方針について指示をされ、また社長、副社長からも挨拶が行われた。すでにこの時、社員は40名を数えたが、「神の国」によると次のようになっている。
 石田栄次郎 石橋束 井上温 石飛迪夫 祷緒琴 飯田きよ子 林二郎 長谷保夫 西村輝夫 西山春雄 西村隆男 大深以都美 奥平重厚 大崎勝夫 吉島東彦 加納秀雄 高野嘉介 田中邦次 辻勝英 続木直 中村優国 中倉栄三 永野良行 中村市松 村上勝光 山岡景吾 矢口地男 松村一造 小島美生 近藤規 小高英雄 江上きよす 出口松次郎 安達隆一 麻生喬彦 安藤温彦 桜井重雄 木村密 木田英一 湯浅勇治 湯浅一男 湯浅寛康 湯浅研三 篠原隆 肥田圓治
 この頃からエスペラント活動が盛んになり、新築成った天声社二階の編集部内に「大本エスペラント研究会」が設置された。
 大正12年7月1日からは同志社大学の重松太喜三を講師に一週間の講習会がもたれた。これを機にエスペラント熱は急速に高まり、天声社の製本場などを利用して西村光月や桜井重雄、村松仙造らが講師となって学習会がたびたび開かれるようになった。聖師は8月、熊本県の杖立温泉に滞在中わずか4日間で「記憶便法エス和作歌辞典」の底本となった「記憶便法英西米蘭統作歌集」をつくりあげた。

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