前編 みろくの世の礎石となって

8,亀岡支社の設立

 免責出獄中であった聖師は大正13年2月13日、突然日本を離れて蒙古へ向かった。免責出所の身で官憲の目をぬすみ、秘かに進められていた準備が実現をみたもので、家族にも全く知らされていなかった。聖師の入蒙は胸中に秘められた東亜径綸の一端をなすものであったが、五ヵ月余でパインタラの法難となって帰国を余儀なくされた。しかし、その破天荒な行動は高く評価され世の注目をあびた。
 天声社はこうした状況の中にあって、本来の印刷、出版事業の手をゆるめることなく7月19日にはエス訳「霊の礎」を、10月25日には「霊界物語」第48巻を、また11月15日には英訳「霊の礎」を次々と刊行して海外宣教への布石が打たれた。
 さらに翌年の大正14年1月17日には天声社の社員に対して「今後は瑞祥会の一課として係員と心得てほしい」との訓話があった。瑞祥会から分離、独立(大正11年5月12日)していた天声社を瑞祥会に統合することによって、組織の結束や一体化をはかろうというねらいによるものであった。
 尊師は当時、本格的に始まっていた天恩郷の建設工事の献労に京都からたびたび訪れていたが、その年の12月には正式に本部奉仕することになり、綾部の庶務課受付の所属となった。
 尊師はおりをみて天声社の工場を訪問し、ときには現場の仕事にもたずさわったが、15年4月からは天声社編集部に転じ健筆を振るうようになった。毎夜おそくまで天声社二階の編集部で執筆や校正される尊師の姿がみられたが、聖師は次のような姓名詠み込み歌を詠まれている。

本宮山に登りてみれば天声社世の大元男高見より見る
高見よりみくだす綾の天声社世の大元男を直日に見るかな

大正14年2月、亀岡城址全域は天恩郷と命名して神教宣布の根本聖地と定められた。また瑞祥閣一帯は万寿苑と命名され、聖師の陣頭指揮のもと神苑整備は一段と拍車がかかっていった。
 天恩郷の建設が着々と進展する一方、万教同根の思想に基づいて世界の諸宗教との連合組織づくりも具体化していった。5月20日には北京で大本をはじめ道教やイスラム教、仏教、キリスト教などの一部が参加して「世界宗教連合会」が発会、さらに6月9日には、人群万類愛善の思想に立つ大本の外郭団体として「人類愛善会」を設立、発足したのである。
 運動は国内にとどまらず海外にも向けられるようになり、その第一弾としてスイスのジュネーブで開催された第17回万国エスペラント大会に西村光月が初参加し、以後パリを本拠にして欧州宣教にあたった。
 エスペラント関連の書籍も次々と刊行され、1月にエス文月刊誌「OOMOTO」、6月にはエス文学習誌「VERDA MONDO」が発刊、前年(大正13年)にはエス文「新精神運動と大本」及び聖師著のエス和作歌辞典」も発売された。
 こうした活発な海外宣教の動きに対応するため、5月29日には海外宣伝課が亀岡に移されることとなったが、これとあわせて天声社も亀岡に支社を設けることになった。
 亀岡支社は大祥殿の完成で移転することとなった亀岡大道場(現松籟館のところ)に設置されることになり、7月19日印刷機の据付工事が始まった。この印刷機は東京博文館の菊全判機で、1ヵ月後の8月21日から運転を開始した。
 このほか活字も次々と増強され、その年(大正14年)の暮れには欧文、和文のほとんどが整備されるようにまでなった。
 亀岡支社長には雨森松吉が10月1日から就任、15年の2月3日からは大谷恭平が庶務次長を兼務して支社長となった。一方、天声社の社員も綾部から次々と派遣された。大正15年1月、13名が綾部から亀岡支社へ転任となり、社員は約20名となった。社員は安町洋館と呼ばれたシオン館を宿舎にして、天恩郷へ通ったのであった。
 大正14年11月6日、綾部警察署から4名の警察官が突然、本社に訪れ「内務大臣の示達によって『山河草木』戌の巻(現64巻下)が発行停止になったので、製本、原稿、校正刷りをそろえるように」として関係書類すべてを持ち帰った。当時、出版物には国家の検閲制度があり、自由な出版はきびしく制約されていたので、以後もたびたび発禁や記事削除の災厄にあうこととなる。
 こうしたことはあっても、聖師の活動はとどまることなく、むしろ勢いを増していった。
 10月に就任した天声社の社長は翌月高木鉄男に交代したが、大正15年2月3日には天声社を当時の管轄下にあった瑞祥会から再び独立させ、次々と新刊を発行していった。
 4月には「三五の神歌」、9月には短歌月刊誌「月光」を創刊、11月には「大本宣伝歌集」を発刊、12月2日には天声社本社の階上書斎にて「伊都能売」の原稿執筆にとりかかった。この頃、聖師はこの天声社二階の書斎で原稿を執筆することが多く、「天声社二階の居間に筆執れば餌食求めて鳩飛び来る」という歌を残されている。
 一方、亀岡支社は操業が軌道に乗るにつれ、工場の増強(9月)や奉仕者の転任、採用を進めていった。8月には綾部の本社や地方から上村寛、瀬尾晶彦、小野金剛丸の少年達が亀岡支社の新陣容に加わった。しかしこうした間にも奥村副社長が引率して約60名が綾部本社から来郷、大祥殿や光照殿を見学、聖師や二代教主と記念撮影のあと京都見物を行うといった慰労も行われたのである。
 また記録によるとこの年の6月25日、本部受付と天声社工場間に当時としては画期的ともいえる空気通話機が架設されている。
 大正15年12月25日、大正天皇の崩御によって昭和と改元された。
 天声社はすでに五十余名の社員を数えるようになっていたが、その氏名は「真如能光」(昭和2年新年号)によると次のとおりである。
 奥村芳夫 辻勝英 西山長義 浜中洪瑞 山村泰造 中條茂樹 松崎才喜 北村隆光 富士津日出男 高見元男 有留弘泰 奥林忠三 中倉健児 吉島東彦 波多野義之 門脇良衛 井上由美 三島省三 江上きよみ 千田幸雄 瀬尾晶彦 小野金剛丸 上野康 上村寛 古川審一郎 馬淵彬彦 梅原保市 深尾匡喜 西村春枝 奥村文子 橋本佳子 谷川梅乃 山根幸之 湯浅寛康 稲垣褒載 石田浩二 矢口地男 木下武 和久佐吉 卯城筑波 井上章 山岡美峯 池島薫 中島ゆき 飯田栄次郎 大槻伝三郎 肥田愛仁 村上黎児 飯田静子 磯田伸枝 知野見たけ 小野八重子 肥田ちか子 四方とみ 井上弘明 〔尊者〕井上千代野 中野祝子 西村雛子 後藤すが 柴田都奈
 また、この昭和2年1月1日付けで亀岡支社長は大谷恭平から吉原常三郎に替わった。
 同じ1月には明光社を興し、8月には「月光」「月明」両誌を合わせて「明光」誌を発刊して、芸術運動がはじまった。
 大正天皇の崩御による大赦令で昭和2年5月、第一次大本事件は原審を破棄し免訴となって解決をみたが、それから半年後の11月、尊師は三代教主の婿養子になることが発表された。
 婚儀は翌年の昭和3年2月1日、統務閣で執り行われた。この日を機に尊師は出口日出麿となられたのである。
 聖師は多忙の合間をぬってたびたび天声社に立ち寄って、指示や激励をされた。
 この頃の歌として天声社に関する次の二首が残っている。

天声社つと立ち寄りて月明誌余白うづめに歌七首かけり (昭和2年5月8日)
天声社いたりて見れば月明誌早や十六ページすりてありけり

社員もこうしたなかで時には京都方面への見学旅行(5月6日)や高熊山の松茸狩り(10月16日)なども行い、鋭気を養った。

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