前編 みろくの世の礎石となって

10,山陰一の印刷工場

 昭和6年は西暦1931年、日本暦2591年で、大本では「いくさ始め」「じごくの始め」と呼んでいた。果せるかな昭和6年9月18日、旧満州の柳条溝で鉄道爆破事件が起こり、これが発端となって満州事変が勃発、巷間では「非常時日本」が声高に叫ばれるようになった。大本では前年の昭和5年、青年信徒の組織として「昭和青年会」を結成していたが、こうした時局に対応するため6年10月には天恩郷に本部を設置、聖師が会長となり全国的な統一組織として再発足した。
 また同じ昭和6年2月の節分大祭では、教勢拡大の梅花運動が展開された。この梅花運動は「三千世界一同にひらく梅の花」の開教の精神に、信徒の「倍加」をかけたものだが、こうした運動によって「神の国」の発行部数は激増し、6月号はたちまち売り切れとなって急ぎ3,000部を増刷するほどであった。
 天声社は「毎日夜業が続いて凄まじい輪転機の音が昼といわず夜といわず毎日響き渡る」といった状況となってきた。「人類愛善新聞」も信徒の熱心な拡張運動によって目標としていた30万部を突破、昭和7年正月号は33万部に達した。因みに昭和6年9月5日号の「真如の光」に発表された各機関誌の発行部数は次の通りである。

 単行本では「月鏡」、歌集の「花明山」「彗星」「故山の夢」「霞の海」「東の光」、「庚午日記」(11巻)、「更正日記」(12巻)がつぎつぎと刊行された。天恩郷に新築の天声社地搗の光景(昭和6年12月23日)
 生産能率のアップを理由として、かねて亀岡第二工場への統合が計画されていたが、昭和6年に入ると急速に具体化し、天恩郷内の濠跡に新工場の建設が決定した。年の瀬も迫った12月18日には地鎮祭が執行され、早くも年末には防壁コンクリートが80%方完成した。翌年の1月7日には立柱式、13日には上棟式が行われ、2月20日には聖師ご臨席のもと完成式が挙行された。敷地面積は約1450平方メートルで、工場は二階建てスレート葺き7棟。その規模は名実ともに山陰一を誇るスケールであった。
 この新工場の完成を機に、第一天声社から24名が亀岡へ移った。前年の昭和6年9月には小畑真延、成野徳勝、鎌田美満、木村広賢、小野良雄、千田幸雄が綾部から転勤してきており、この人事で天声社の人容はほぼ亀岡に吸収された。
 第一天声社は昭和7年2月27日、神光社と改称され、工場の二階は宿舎、一階は機織工場となった。これで天声社は綾部での任務をおわり、亀岡・天恩郷の新工場が神業の第一線の役割を担うこととなった。
 なお、1月13日の上棟祭の模様を「真如の光」では次のように紹介している。
 「1月7日に立柱式を終り、13日に上棟式を挙げた亀岡天声社工場は節分祭までには仕上げるのだと行って大いに工を急いでおります。上棟式当日は日出麿師も列せられて、聖師と共に餅撒きをされました。本誌口絵にある通り、敷地440坪の上に建てられた大工場で天恩郷の一大偉観であります」。
 統合後の天声社は社員約160名を有するようになった。湯浅勇治は当時のことを「神様の御文を世に出すご用をさせて頂いている者として大きな誇りをもって、楽しい毎日を送っていた」と述懐している。
 印刷力がぐんぐん増強されるにつれて、次々と新刊書も発表されていった。昭和7年3月には聖師の第6歌集「霧の海」第8歌集「青嵐」などが刊行、その他幹部の著書も発表された。
 聖師は霊界物語の拝読を奨励するため、神劇等も行ったが、一方においては拇印を霊界物語に押捺するなど、読者の開拓にも自ら意欲的に取り組まれた。「真如の光」9月号によると「聖師様天声社売店の書籍類にいちいち拇印を押して下さる。内部の人は幾分遠慮がちであるが、修行者の多い昨今のことたちまちの内に売切の盛況を呈す」とその状況を伝えている。また同じ昭和7年10月29日から11月4日の1週間に限り書籍の一割引も実施した。こうした活動によって天声社の書籍は「霊界物語」を中心に飛ぶような売れ行きをみせ、たとえばこの一週間だけでも約1万冊が販売された。
 昭和8年10月、聖師は再び「霊界物語」の口述に入られた。「霊界物語」は大正15年7月、72巻まで口述されていたが、その後は中断されたままだった。今回の口述は昭和9年8月まで続き、全9巻が完成した。この9巻は「天祥地瑞」として天声社から次々と発刊されていった。
 精力的な聖師の文書宣伝活動は天声社だけに限らず、一般の出版社を通じても行われた。
 昭和9年、東京の万有社は「出口王仁三郎全集」全8巻の発刊を企画した。発行には平凡社社長の下中弥三郎や、のち兵庫県知事となる阪本勝などがあたっている。
 この全集は5巻以降、天声社で印刷したが、全国紙にも1ページ大の広告が出るなど宣伝効果もあって第一巻の配本は12600冊にもなり、各層から大きな反響が寄せられた。
 大本は昭和8年1月26日(旧1月1日)を期して「皇道大本」に教名を復帰し、世上の「皇道」をするどく批判してその真精神を説き、ゆきづまった日本の現状打開を叫んで、さらに精力的な活動を展開して行った。
 人類愛善新聞は昭和9年3月、念願の100万部発行を達成したが、皇道大本はこれら新聞や機関誌、講演会を通じて世にひろくアピールしていった。
 こうした運動は「昭和神聖会」の結成(昭和9年7月)へと発展し、国家至上主義化へ向かう時代にあって昭和10年12月の第二次大本事件へとつながっていった。
 この間は、天声社にとってももっとも活気に満ちた時代であった。人類愛善新聞の発行は100万部に達し「神の国」(口絵4頁、本文132頁)は15000冊にのぼった。その他「天祥地瑞」や「玉鏡」「随感録」「皇道大意」「記紀真釈」「皇道維新と径綸」「惟神の道」「信仰雑話」「信仰叢話」ほか「皇道大本大要」「神示と世相」「皇道の栞」「人類愛善会要旨」など教典、論文、解説や「大本写真大観」「王仁書画集」、またエス文、英文パンフレットが毎月のように新刊として誕生し、輪転機をはじめ十数台の大小の印刷機はフル操業を続けた。
 こうした様子を尊師は昭和8年3月号の「神の国」で次のように書かれている。
 「吉原氏に案内されて、最近の天声社を一巡してみる。菊判の輪転機が据えられたので、ずっと手が省けるだろう。文選(和文・欧文)、紙型、鋳造、校正、製本(和・洋)、発送、代理店、倉庫、事務室等社内が12部に分かれて全員で160名、皆気持よく働いている」。

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