12,再生

 第二次大本事件が勃発してからまる十年。近代日本史上未曾有の宗教弾圧は解決した。
 大本は「愛善苑」として新発足することとなり、昭和二十年十二月八日、綾部・梅松苑の彰徳殿で「第二次大本事件解決奉告祭」が盛大に開かれた。この日は戦後最悪の交通事情のなか、全国各地から訪れた約一千五百名の熱心な信徒が殿内を埋めた。
 祭典後、聖師は立ち上がり黙って参拝者にお辞儀をされた。続いて二代さまは「どなたさまもご遠方からご苦労様でございます。話は伊佐男さんにして貰いますから、どうぞごゆっくり・・・。ただおめでたいと言うに止めます」と簡単に述べられた。しかし、このお二人のお言葉は百万言にも勝る感動的なご挨拶であった。
 長年の辛苦と風雪を堪えてこの日を待っていた信徒は涙を流し、また喜びを噛みしめて再建を誓った。
 この祭典では、事件関係の物故者や祖霊の慰霊祭も執行された。その中にはかつて出版局時代に局長をつとめた岩田久太郎や天声社の社長などをつとめた御田村竜吉、高木鉄男、河津雄次郎ら幹部の名前もあった。
 事件解決からまだ日の浅い昭和二十年十一月、早くも東尾吉三郎を中心に機関誌発行の準備がはじまった。中矢田農園の出口操宅(一階)に編集部が置かれ作業がはじまった。
 印刷は翌年になって、宗教専門紙・中外日報社(京都市東山区)で行うこととなった。
 同社の真渓涙骨社主は、当時気骨のあるジャーナリストであった。真渓は大本事件で一般全国紙が競うように大本をくり返して攻撃した時も、絶えず公平な報道姿勢を崩さなかった。また戦後はいち速く中外日報紙上で愛善苑の動静を報道しつづけた。
 この中外日報社で愛善苑が印刷を行うことになったのは、事件中同社の記者をしていた伊藤栄蔵を通じ聖師に対して真渓より寄せられた申し出がきっかけとなった。
 新聞界は社員の出征や戦災によってほとんどの人材や設備を失い、用紙をはじめとする資材は極度に窮迫していた。中外日報社もご多分に洩れず事業の継続は困難をきわめ、発行もおぼつかないような窮状にあった。
 真渓は追い込まれた当時の状況を中外日報紙の「編輯日誌」で次のように書きのこしている。
 「残念ながら出て行きたいものには出ていってもらうより外はない。貧社のミジメな営業状態では泣いて送り出すより手のつけようがない。最近、この荒まじいインフレの嵐に吹きまくられてお恥かしながら社内は上も下も大混乱を呈してきた。一応最善を尽した上は成るように成らしめる、成るがままに放任するより仕方がない。応急策として毎日発送を『隔週発送』にする。郵便料は同じでも帯封紙が一回書く手間が大に助かる」(昭和二十一年一月二十九日)
 「高圧線の故障にて動力来らず輪転機が硬化した。あらん限りの手を尽して各方面に嘆願懇請したるもらちがあかず、ついに五日も六日も新聞を刷ることが不可能に終った。その間、真に不可言の苦痛を忍んだ」(昭和二十一年二月八日)
 聖師の英断によって、資金面では愛知県の有力信徒、桜井信太郎の協力で一応のめどがついた。
 中外日報社の印刷工場は当時数名といった陣容で、まず愛善苑側から人材が派遣されることになった。
 瀬尾晶彦の記憶によると昭和二十一年四月一日、東尾吉三郎に呼び出され聖師のお言葉として「中外へ急援に行くように」と伝えられた。突然のことで驚いた瀬尾は翌日、早速に聖師にお目にかかった。聖師はこの時「うちの仕事は後にしても良いから、なんとか中外日報を優先するように」と命じられた。
 このお言葉で意を決した瀬尾は、翌日真渓を訪れて聖師のお気持ちを伝え、工場の方は万事お引き受けいたしましたと約束した。この時、真渓は涙を流し「よろしく」と、瀬尾の手を強く握りしめたという。
 四月四日から中外日報社の印刷工場は土井三郎、瀬尾晶彦を中心に愛善苑中外印刷所として操業に入ることになった。
 昭和二十一年四月十三日号の「編輯日誌」には早速、次のような記事が掲載されている。
 「土井三郎氏を中心とする宗教的訓練ある一団によって我が工務は漸く新陣容を整えられた。順次内容的にも充実味を加え、印刷上にも必ず異彩を放つに至るであろうことを期待する。長い年月間、全く柄にもない工場の人的及び物的な困難なる事業のために悩まされ苦しめられてきた。肩の重荷がおろされて軽快な気分に浸りホッと一息ついた」とある。
 瀬尾晶彦につづいて黒川実、湯浅一夫が入社、さらにまだ十代であった市村邦夫や高橋(幡本)幸彦といった地元信徒の子弟も加わった。その年の末頃までには元本部奉仕者の中野三郎や高橋景俊、それに平野進、村井進一、祈正巳、服部茂、足立佐吉も加わり、引き続いて久徳富雄、矢野義男、長井良順や佐藤(松家)博、市村俊武、古田光秋ら奉仕意欲に萌えた青少年達もつぎつぎと駆けつけた。
 工場は日に日に整備され、活気を戻してきた。その様子を「編輯日誌」は次のように伝えている。
 「工場は美しく整備され、長年の乱雑から洗い清められた。工員のいずれも宗教的に訓練されて情操豊かに人間的統制が保たれて殆ど模範工場が築かれんとしている。漸次活字も新しく改善され印刷も鮮明となるだろう」(昭和二十一年六月四日)
 「我が印刷工務員達、薄給に甘んじ、終日働き抜いて不平一つ言わず苦しい面一つ見せず専ら仕事に勇んでいる。技術の巧拙は二段としてこんな美しい工場を持したことは是までかつて経験したことがなかった。我等毎日教えられることが多いと発送部員達が口を揃えて讃仰しているのも珍しい現象だ。技師は業を終えて帰らんとする時、恭しく合掌して輪転機を拝んで感謝の祈りを捧げる。それでこそ機械に魂が入っているのだ。神動の妙用はそこから生まれる」(昭和二十一年九月三日)
 新発足後の最初の機関誌は「愛善苑」で二十一年四月一日、創刊号一万部を発刊した。B5判十六頁という体裁で、最初の「創刊の辞」につづいて聖師の「愛善の歌」、真渓涙骨の「みろく運動の出発」、さらに出口宇知麿の「事件解決奉告祭挨拶」が順次掲載された。
 編集責任者の桜井重雄は編集後記で「外観は貧弱だが、内容は厳選された」とその喜びの胸の内を隠すことなく率直にあらわした。桜井の言うように紙も配給だけでは足りず統制外の仙花紙で粗末なものではあったし、占領軍による事前検閲のきびしかった当時の状況では精いっぱいの努力の結晶であった。印刷は西村久吉の奔走で紙型を兵庫県淡路島の井村印刷所でつくらせ、戦災で焼け残った大阪の印刷工場で行った。
 刷り本(印刷された紙)は亀岡に運びこまれ、奉仕者やその家族が製本、宛名書き、発送などにあたった。当時、設備らしい設備は全くなく、止むなく手作業に頼らなくてはならなかった。しかし、誰一人として不平を言う者もなく、毎晩遅くまで「愛善苑」の紙折り、製本、発送に取り組んだ。
 第二号から第四号まではひきつづき井村印刷所で製版のうえ紙型として、愛善苑中外印刷所で印刷したが、八月に入ってようやく体制が整備され「愛善苑」第五号(九月号)より製版・印刷の一貫作業に入ることができた。
 編集部も中矢田農園から横町の東尾宅に移り、愛善苑出版部としてその充実に務めた。
 しかし、戦後の資材、電力不足は日に日に深刻化し、中外印刷所もその対応に苦慮する日が続いた。
 「編輯日誌」ではそうした状態を次のように報じている。
 「用紙キキンのため十八大雑誌は一斉に五月号を休刊することに決した。総指令部の命令に発行お預けとなった新聞は信州日報、近江新聞、山形日報、和歌山日日等約二十社あり」(昭和二十二年四月十五日)
 「印刷があまり汚いので読者から種々の苦情に襲われ、一寸工務に注意した。土井印刷部長、瀬尾主任より新活字鋳造についての準備中、今暫くの辛抱を申し出られた。私はただその『誠実』に何とも言われず感涙を絞った。この大暑中、額に一滴千金の労苦を満腔の感謝で拝んだ」(昭和二十二年七月二十六日)
 「節電教化のため昼間動力の来ない印刷部は止むなく夜の九時より輪転機を動かすの外なく、機械部は泊りがけで作業している。かくれたる労苦を察して下さい」(昭和二十二年九月二十二日)

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