13,槌音高く

 昭和21年2月14日、愛善苑の会則が決定し、出口宇知麿を委員長とする新体制が発足した。編集部主任には桜井重雄、出版部主任には土井三郎がそれぞれ就任した。こうした組織や人事と共に天恩郷の整備も急ピッチで進んでいった。
 3月21日には製本工場予定地(現梅松塾)で地搗きが行なわれた。12月には聖師・二代教主の居宅として瑞祥館と、愛善苑道場兼事務所(西光館)が完成した。編集部と出版部は事務所に移ったが、翌年12月には二階建の本部事務所が完成し、そこへ移転した。第二次大本事件で徹底的に破壊された苑内は全国信徒の懸命な奉仕活動で急速にその姿を変えていった。聖師は自ら現場に足を運ばれて指導にあたったが、当時の状況を次のように詠まれている。
  風とほりよき神苑にいこひつつ巨石運搬工事を見るかな (21年7月9日)
  今日もまた奉仕の信者数十人草ひきモッコかつぎいそしむ
 昭和22年2月には宗教法人法による手続きを完了、宗教法人「愛善苑」となった。出版部の管轄にある機関誌は「愛善苑」に続いて21年12月8日に「愛善時報」が創刊、刻々の愛善運動の展開を詳細に報道するようになった。
 「愛善苑」誌は徐々ながらも充実していき、22年1月には20頁に増頁、5月1日からは月二回発行(1日、15日)となった。
 内容も聖師のご教示や歌、幹部や地方信徒の寄稿に加えて、真渓涙骨や牧野虎次(同志社総長)などが健筆をふるって紙面を飾った。
 ただ深刻化する用紙不足はいかんともしがたく、止むなく発行が遅れることもたびたびあった。
 この苦境のなかで6月には、聖師の歌五百首を選んで「愛善の道」が刊行された。手漉きの和紙を土佐からとりよせ、心血を注いで完成した立派な出来ばえに、聖師は「わしの本が出来た!」「よう立派に出来た!」と、本を手にとられながら大層なお喜びであった。
 土井三郎は「用紙の獲得にはほんとうに疲れ果てたと申すのが当時の事情であり、・・・・・・事業推進のためには値段や品質は問題でなく・・・・・・かかる裡にあって『愛善苑』の発行をつづけ、そのうえ単行本を発行したのは神助のほかなく・・・」と後日述懐している。
 聖師は21年8月頃から高血圧のため静養されるようになり、22年8月27日(旧7月12日)、月の輪台で行われた瑞生大祭は二代教主が先達、出口宇知麿の祭主で執行された。
 この祭典には北は北海道から南は種子島まで数千人の参拝者で賑わった。地方の組織はまだ新発足依頼一年半というのに、すでに三百カ所に達していた。
 昭和23年1月19日は教団にとってもっとも悲しい一日であった。聖師が77歳をもってご昇天になったのである。聖師のご昇天は全国の信徒にとって予想だにしなかったことであり、その衝撃は例えようもなかった。しかし、二代教主の強いご態度によって、信徒はその悲しみから起ちあがって奮い立った。
 二代様は聖師がご昇天になると、聖師の前で「ほんとうに長らくご苦労さまでした。これからは私が跡を継いで立派にやっていくさかいに心配しなさんな」とはっきりご挨拶になった。
 23年1月1日より、機関誌やご神書の編集、出版を管轄する瑞光社(社長、東尾吉三郎)が発足したが、その6月には愛善苑の機構改革によって瑞光社は出版、編集、経理の三課と中外印刷所、製本所、愛善工業所を統括した。社長には従来どおり東尾吉三郎が、また副社長には出口五十麿、中外印刷所所長には土井三郎がそれぞれ就任した。瑞光社は10月28日の開祖三十年祭を期に土井三郎社長、土居重雄副社長という新体制となり、出版課長には木田繁雄、中外印刷所所長に瀬尾晶彦、工芸所所長に桑山将三郎が就任した。
 また、愛善苑では広大な聖師の行跡を記録にとどめるため「出口王仁三郎聖師記念写真集」を編纂し、便利堂(京都市)から出版した。
 瑞光社中外印刷所では、厳しさを増す電力、資材不足のなか、信徒やその子弟を中心とする熱心な所員によって懸命な作業が続いていった。
 昭和23年4月号の「愛善苑」誌では出口虎雄がその模様を次のような文と絵入りで紹介している。
 「一、二月の厳寒時、電力は最悪の状態が続いて作業はほとんど深夜。それも波状停電で延べ三、四時間の間に本誌を始め、愛善新聞、教報、或は「愛善の道」その他の単行本の上に経営自立の立場から、中外日報、合同通信、農業国民等の印刷を完了しなくてはならない。その間の瀬尾主任をはじめ二十数名の涙ぐましい努力と責任感には中外日報社主の涙骨翁がしばしば感激の意を洩らしておられた。三月も終わりに近づき、電力事情も好転し、ホッとひと息ついた感じではあるが、愛善苑の目覚ましい発展につれて激増するであろう印刷の需要に応ずるため、用紙、副資材の獲得に御老体の土居所長が人知れず頭を痛められていることであろう」
 中外印刷所は慢性的ともいえる電力、資材不足に苦労をしながらも、意欲に燃えた所員達の献身的な努力によって、ひとつひとつ壁を乗り越えていった。この頃になると「道のしおり」「宣伝歌集」「愛善苑祭式」「善言美詞」等が単行本として相次ぎ刊行された。昭和23年3月には愛善みずほ会が設立され、農業機関誌として「愛善新聞」現在の「みづほ日本」も刊行されている。
 また昭和24年1月号の「愛善苑」誌には初めてカラー印刷が登場、出口虎雄描く「白梅」が表紙を飾った。印刷技術も向上し、内容も充実を加えていったが、やはり印刷工場が遠く京都にあるのは何かにつけ不便で、いろいろな支障に直面することも多かった。当時の「愛善苑」誌編集後記には次のような記事がみられる。
 「印刷所が離れているので、製版上の一寸したことでも一々長距離電話をかけるか、わざわざ出かけていかねばならず、電話が通じない内に印刷機にかかってしまうということもあったり、何かにつけて不便至極で早く亀岡に印刷の設備が出来たらと何時も思うことです」とある。
 一方、信徒にとって待望久しかった「霊界物語」の再刊にも着手され、24年5月には「抄一」が、さらに引き続いて「抄二」「抄三」「抄四」が相次ぎ刊行、さらに「開祖伝」や「青年叢書」も出版された。
 愛善苑は着実に一歩一歩前進を遂げていったが、この昭和24年10月の教団規則の全面改正で名称も「大本愛善苑」と改まり、12月8日には「人類愛善会」「大本楽天社」が再発足した。
 この24年ごろになると教団の体制も基礎が固まってきたためか、出版活動にも一団と拍車がかかってきた。9月には「神の国」「おほもと」誌の前進である「海潮」が発刊、これを機に「愛善教報」は「愛善苑」誌に吸収された。
 この「海潮」はまだ中外印刷所の印刷体制が整わないところから翌年の25年3月号まで北国書籍印刷(金沢市)へ、また25年4月号から9月号までは大日本印刷京都工場へ委託した。「海潮」の創刊号には当時同志社の総長だった湯浅八郎が「魂の再発見」として創刊を祝い、さらに大谷光照(本派本願寺門主)や緒方宗博(花園大学教授)といった著名な宗教家が寄稿、紙面を飾った。この「海潮」はA5判48頁で、定価は40円、送料3円であった。
 この「海潮」も昭和25年10月号から中外印刷所で印刷することになり、これに先立ち9月号から「神の国」と改題された。「神の国」は頁数も56頁と増え、内容も充実されたが、定価(40円)は据え置かれた。この夏は、折悪しくジェーン台風の影響で停電が長期間にわたって続いたため、印刷機や鋳造機がストップするという思わぬアクシデントに直面した。しかし、こうしたことも乗り越えて中外印刷所での印刷がスタートを切ったのであった。
 また楽天社の機関誌として昭和25年1月に「木の花」誌が刊行されたが、印刷は北国書籍印刷(金沢市)で行われた。さらに愛善エスペラント会も2月には発足、4月には英文パンフレット「大本運動」が、11月にはエス文「OOMOTO」が相次いで刊行された。
 なお、この年の12月31日午前2時半ごろ、本部事務所の一部から出火、あっという間に事務所が全焼するという火災事故があった。
 この頃はまだまだ用紙不足が深刻で、中外印刷所もこの用紙対策には連日頭を痛めていた。昭和26年3月15日発行の「愛善苑」誌の編集後記には次のような記事が掲載されている。
 「用紙が急に入手困難となって、印刷業者が四苦八苦している。一部売りが計画されているので『神の国』3月号は2月中に印刷の予定であったが、用紙不足のため十日ほど遅れてしまい、手ぐすねをひいて待っておられる各地の方々にご迷惑をおかけしたと思うが、右のような次第なので御諒承頂きたい」
 昭和26年7月号からは「神の国」「木の花」がいずれも定価を40円から50円に改定、これとあわせて増頁や紙面の強化をはかった。特に「神の国」は従来の64頁から「木の花」と同じ72頁に増えた。
 当時「神の国」の発行部数は長らく約八千部にとどまっていたが、出口三千麿を中心に全国的な拡販運動を展開し、この結果、目標の一万部を達成した。
 さて26年暮れ頃から体調をくずされ瑞祥館で御静養中だった二代教主は、昭和27年3月31日、靜かにご昇天になり、69歳2ヵ月のご生涯を終えられた。
 瑞霊真如聖師の跡を継がれて4年、絶えず自ら先頭に立たれて全国信徒を導き、戦後のもっとも困難な時期に「みろく殿」の建設などその礎を築かれたのであった。

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