14,株式会社天声社の設立

 昭和27年4月1日、大本愛善苑は「大本」と教団名称が変わり、三代教主ご就任とともに瑞光社も衣替えして「株式会社天声社」となった。昭和21年4月、愛善苑出版部として産声をあげて以来6年、第二次大本事件によって、一時はこの世から消えたかにみえた天声社の名前が再び甦ったのである。
 これを機に楽天社の「木の花」誌の印刷も天声社が担当することとなった。
 当時天声社で出版していた主な書籍は「霊界物語」「大本讃美歌」「愛善の道」「道のしおり」等で、月刊誌は「神の国」「木の花」「愛善苑」であった。この時、すでに現在の出版体制ができ上がっていたといえる。
 天声社は4月1日の発足を控え、3月30日に創立総会を開催、定款や新役員を決定した。取締役には土井三郎、石田卓次、土井重夫が、また監査役には広瀬繁太郎が選任された。代表取締役には土井三郎が就任、この新体制のもと4月1日登記を完了した。
 資本金は二百万円で、全株式総数は四百株。株主には大本側の発起人9名のほか、全国の信徒14名に依頼して引き受けてもらった。
 天声社が株式会社として発足したとはいえ、天恩郷にあったのは製本所だけで、印刷は従来どおり中外印刷所で行った。中外印刷所で印刷された機関誌等は当時一台あったトラックで天恩郷へ運ばれ、製本所で丁合や紙折り、断裁されて仕上げられた。完成した書籍はリヤカーに積み込まれ、北町の郵便局に持ち込まれて全国へ発送された。
 やむを得ないとはいえ、天恩郷で印刷ができないということは何かにつけ不便で、その解決のため、天声社の設立を機に新工場の建設が急速に具体化していった。
 新工場建設に必要な資金対策として28年2月2日、臨時株主総会を開催して倍額増資し、資本金400万円とすることが決定されたのである。
 5月23日、天声社の第1回定期株主総会が愛善みずほ会館で開催された。売上げは12,040,194円で利益は680,431円を計上、10%の配当を実施した。この第1期の営業概況では次のように報告されている。
 「初年度に於ては瑞光社時代よりの関係により印刷工場の所在が遠隔の地京都にあるため、能率低下に併せて経営費がかさみ充分の利益をあげざりし結果、株主配当も年一割に止めるの已むを得ざる事情にあったことをご諒承お願い申し上げる次第であります。次年度に於ては印刷工場を本部の亀岡天恩郷に移して経営を合理化し、ご期待に沿うべく善処したいと考えております」
 昭和28年5月、念願の印刷工場完成に向けて建設工事が着手された。起工は5月19日、6月11日には上棟式、8月12日には早くも工場社屋完成奉告祭が執行された。場所は現印刷工場敷地で規模は二階建木造建築延面積270平方メートル。資金難に対処して処分工場の古材を活用、1階を機械場、2階を文選、植字、解版場とした。
 当初の予定では、28年いっぱいは従来どおり中外印刷所で印刷することになっていたが、中外日報社の事情によって急遽移転が早められることになった。折悪しく、台風の影響で設備の搬送計画が遅れたが、それでも9月26日にはトラックによる移転を開始し、10月7日には無事完了した。この日、新工場では大神様鎮座祭が厳粛に執行された。
 設備については、思いもよらず中外印刷所で活用していたものをそのまま転用することができた。昭和10年から18年ぶり、天恩郷で再び印刷がはじまったのであった。
 当時のおもな設備は活版印刷機菊全判平台、同四六判半裁平台、同四六判八頁平台各1台、自動鋳造機2台などだった。菊全判印刷機はこの新工場建設を機に新たに購入したもので、新品は130万円もするところから中古品(約70万円)で我慢することとした。
 この昭和28年4月、二代教主が心血を注がれ、また全信徒が待望していた「みろく殿」が完成、その姿を梅松苑に見せた。第1回の決算はまずまずの成績で、順調なすべり出しをみせたかにみえたが、2年度に入るとさまざまな要因が重なって経営を圧迫しはじめた。第2回決算(28年4月〜29年3月)では売上げは1,363万円と微増したものの、利益は274,000円と半減し、配当は5%に減配を余儀なくされた。
 工場の移転にともなう費用増、水害による操業ストップなどに加えて設備が老朽化しており、不能率で足を引っ張った。
 工場内の生産体制の強化、天恩郷の売店や綾部出張所の開設等、発足時だけに資金はいくらでも必要であった。こうした資金は借入金でまかなわなければならず、政府系や地元の金融機関に頼らざるを得ない状況だった。第3回決算では長期借入金が430万円にふくらみ、利息だけでも36万円に達した。こうしたことが業績を圧迫し、この期も利益45万円にとどまった。
 創業時とあって経営面では厳しい試練に直面せざるを得なかったが、印刷工場の完成によって出版活動は一挙に拍車がかかった。
 昭和29年3月、ビキニ環礁での水爆実験を機に、大本・人類愛善会は原水爆禁止運動を全国的に展開し、世のさきがけとして社会の関心を集めた。
 昭和30年になると、すでに「霊界物語」「大本神諭」の二大神書のほかに「大本讃美歌」「愛善の道」「霊の礎」「大本祭式」「開祖伝」「聖師伝」などが市販されていたが、さらに「花明山新書」として「幼ながたり」(出口すみこ著)が出版された。また31年に入ると「信仰覚書」(出口日出麿著)「信仰雑話」(同)が出版され反響を呼んだ。
 昭和31年2月、朝陽館(天恩郷)の建設が決定したが、天声社も新工場を増築することになった。
 出版活動が熱を帯びるようになって、これまでの設備能力や工場規模ではもはやこうした要請に十分対応できなくなったためである。
 工場は木造二階建で建築面積は1階420平方メートル。新工場は文選設備を全て一階に置き、一部を製本場とした。また文選の行われていた旧工場の2階と新工場の2階は独身寮となった。工場はその年の11月に完成、総工費は新工場の2階の青年寮改造費60万円を含めて230万円。これまでの製本工場の木材を活用するなど工費をきりつめたが、80万円は借入金でまかなわざるを得なかった。
 またこの新工場の建設にあわせて約290万円を投入し、菊全判印刷機、紙織り機、断裁刃磨機、母型を購入したが、これにあたってっは北国新聞社の嵯峨保二社長の好意によるところが大きかった。
 さて、昭和31年4月には、教団における組織運営の機能化と一体化を推進する狙いから「神の国」「木の花」「はぐくみ」「いわう」「大本青年新聞」「婦人会だより」が併合されて「おほもと」と改題された。これを気に編集責任者は長年にわたってたずさわった桜井八洲雄から伊藤栄蔵にバトンタッチされた。この31年11月10日には臨時株主総会を開催して、一部定款を変更、東亜火災海上保険株式会社の代理店として損害保険業務に乗り出した。
 また11月19日の取締役会では常勤役員として代表取締役のほかに経営の実務にあたる専務取締役を置くことを決め、土居重夫取締役が昇格した。
 これによって、実質的な経営責任は土井三郎から土居重夫に移った。土井三郎は昭和21年の中外印刷所以来、一貫して教団の印刷・出版部門の責任者として献身的な努力を重ね、その発展に心血を注いできたが、内事室長の就任や高齢に加え、一応天声社も新工場が完成し基礎固めができたところから、実質的な業務を土居重夫に移すことにしたものであった。
 愛善苑発足当時、深刻な人材・設備・資材不足の中で粉骨砕身、出版活動を起動に乗せ、小規模とはいえ天恩郷に印刷工場を建て、天声社を再発足させた功績は高く評価された。
 昭和32年11月からは愛善みずほ会発行の「みづほ日本」を印刷することとなり、また出口日出麿先生還暦慶祝出版として「信仰叢話」が再刊された。この年には「大本讃美歌」「大本祭式」の改訂版や「大本の道」が出版されるなど出版活動も本格化し、低迷していた売上げも増大傾向をみせはじめた。また工場の設備投資などの整備も一段落したため、二期間続いた無配当も復配(年6%)することができた。
 昭和33年の節分祭には、かねて懸案となっていた「霊界物語」全巻刊行を目標に「霊界物語早期刊行会」が結成された。この刊行会は聖師十年祭の記念行事ともなるもので、1ヶ月に3冊、2年後の昭和35年春72巻完成をめざした。
 この年の5月、天声社は第6期株主総会で代表取締役が土居重夫に変わり、土井三郎は代表取締役会長に就任した。以降、土井三郎は本部の内事室長に専念するようになった。

《←前へ戻る》   《社史の目次》   《次へ進む→》


《TOPページ》